オートクチュールの魅力は
顧客ひとりひとりの想いと美学をデザイナーと共に誂えた
世界に一つの真のラグジュアリー、
アルチザンの手により、時の最先端と受け継がれた伝統技術
による究極のクリエイティブと言われております

水澤工務店の施工理念は
数寄心を持つ現代の建築アルチザン、
『時の粋』の作り手として
“その建物は、美しく、機能的で魅力的な空間となるべき”
という価値観に基づいたものです

お客様、設計者のインスピレーションの融合である
その設計趣旨に沿い、
各プロジェクトの魅力と匠技が共鳴するべく
様々な専門職人と共に、
先人の知恵に敬意を払い、継承技術、
技術追求、刷新によって創出されるよう
美意識をもって素材の厳選と見立て、
ディテールへの気配りによってつくられる

オートクチュールのような建築

1914大正3年

たった一枚の鉋くず

創業者文次郎は、1890年(明治23年)
新潟県長岡市の大工一家に生まれ、
一流の大工を目指し19歳で上京、

修行に明け暮れるなか
互いに修行の身である床屋職人と出会います。

ある日、文次郎は満足のできる
鉋がひける事が出来、早速、
その鉋くずを彼に見せに行きます。
鉋と鋏、職種は違えど互いに刃物を道具する職人、
その嬉しさと意味を理解してくれました。

その後、鉋くずはその理髪店のお客様であった
高級料亭の主人の目にも留まることとなり、
このご縁から、
文次郎は初めての新築工事を任され、
23歳で水澤工務店を創業します。

若くして出会ったその床屋職人とは、
後年、多くの財界人や文化人に愛され
『営業の神』と称された松下幸之助氏
が商いの姿勢に共感、共鳴し
『米倉さんから学んだ』とされる
日本一の理髪店『米倉』の創業者、
米倉近氏その人でした。

1921大正10年

十人の弟子 腕利きの大工集団

若くして創業した大工文次郎は『鉋かけなら誰にも負けぬ』を自負に
30歳までに10人の職人を使う立場に
なりたいという強い思いから、
ご近所さんの些細な仕事でも懸命につくり続けることで
徐々にお得意様が増えていき、
念願通り30歳にして、十人の弟子を束ねます。

1925昭和4年

建築家デザインと出会った数寄屋棟梁

技術一筋の棟梁に衝撃的な出会いがありました。

駆け出しだがその腕を見込まれて大手の下請けの機会を得ます。
より難しい現場を任され、更に腕を磨いていくなかで
建築家のデザインを眼の当たりにし、
文次郎はその美しさに魅了されました。

『単に腕が良い大工ではダメだ!』
『これが新しい棟梁の歩むべき道』

当時の住宅建築は昔ながらの大工が設計から施工まで
一貫して請け負う時代。

しかし、この経験により職人気質の棟梁が
単に腕が良い大工ではダメだ!
美意識の高い建築家の目にかなう大工こそが
より美しく素晴らしい建築を生み出だせる!

『これが新しい棟梁の進むべき道』
と確信し、従来の名工と違う
新しい領域の棟梁を目指すことを決意します。

1944昭和19年

設計理解力こそ要、自らもデザイン

『戦火を逃れ本拠地を山梨へ 』

第二次世界大戦の戦火を逃れ、
社員、職人、家族と共に山梨に移り、1944年に甲府に店を構え
終戦まで山梨県内の公共工事に携わります。
そのような状況下でも、文次郎の上質な建築への情熱が深まり
同年、終戦を目前に、再び東京に本拠地を戻す事を決意
自社の設計部門を立ち上げます。

『再び上質な建築の夢へ』

戦後の東京では住宅復興、山梨で地元の山梨中央銀行の復興事業をはじめ、
自社設計施工により数寄屋建築、旅館、住宅を手掛けました。

1952昭和27年

巨匠建築家からの挑戦状 和風建築近代化

まだまだ和装が多かった時代、
1947年にクリスチャン・ディーオールは
「ニュー・ルック」を発表、
その新しいシルエットが
日本ファッションに大きく影響を与えた50年代、

建築界では『less is more』を提言した建築家ミースを
はじめとするシンプルかつ機能美のモダニズムデザインは
新たなる建築モードとして時代の関心を寄せます。

日本の建築もその影響を受け、
『和モダン』の原型となる近代数寄屋、
モダニズム住宅への進化のきっかけとなりました。

『近代数寄屋という未知のモダニズム建築』

1952年、現代数寄屋建築の祖といわれる
吉田五十八先生から施工の依頼を受けます。
その意匠はまさに未知の和風モダニズムデザイン。
施工にあたり直面したことは、
いままでの技術や知識では無論足らず、
新素材を用いた新たな技術表現へのチャレンジによる
革新技術と伝統技術の融合でした。
これは日本の大工の良さを、近代的な意匠まで
押し進めようとする熱意でした。

1960昭和35年

“時の粋”のつくり手として

60年代に入り、
吉田五十八先生をはじめ、進化し続ける日本の
建築デザインを牽引する多くの名巨匠の
建築家から施工の依頼が増していきます。
水澤の建築は
棟梁が目指した新しい領域である
“時の粋”のつくり手として
歩み始めました。

巨匠建築家の見た水澤の建築

古来、名⼯達はその道の達⼈であるが、道⼀筋にのみ⽣き
⼤局からモノを⾒ない⼈が多い、
⽔澤くんは⼯匠とし名⼈であるだけでなく、
建物に対する⾼度な評価眼と設計に対する鋭い感、
コンストラクターマインドを持っている建築⼈である(吉⽥五⼗⼋)

とにかく職⼈の名⼈芸といえば、
かたくなな⾮協⼒が⽬⽴つのに、⽔澤⽒は
従来の狭い数寄屋造りの考え⽅の領域を超え、
新い設計領域に対応せしめる現代の優れた棟梁。
私の意匠⼼が揺さぶられた(⾕⼝吉郎)

1970昭和45年

現代型工務店へ

70年代、
日本の建築も近代化からモダニズムへと
時を進めます。
近代数寄屋建築は成熟度を増し、
また住宅の潮流は近代数寄屋から
モダニズム住宅時代への兆しをみせます。

“近代数寄屋なら水澤”と信頼を頂き、
赤坂和風迎賓館、多くの料亭、店舗、
芸術家、財界人、政治家など多くの著名人
のご自宅を任せて頂けるようになりました。

そして海外
74年以降、ニユー・トーキヨー ハワイ店内装、LAにセリーヌ&オメガ店、
在米日本大使公邸茶室等の海外施工を手掛けました。

1980昭和55年

『パリにいても 日本の心を忘れないように』
KENZO HOUSE in Paris

『ケンゾーは紛れもなく東洋と西洋の融合という
ファッションの新たなページを記すことに貢献した』
フランスオートクチュール・プレタポルテ連合会の会長
からその功績を讃えられた髙田賢三氏より、80年半ば、
パリ市内のご自宅にお茶室を施工するよう依頼がありました。

『パリにいても 日本の心を忘れないように』
きっと、この賢三氏の言葉の意味は
故郷への想いや和みを求めるだけでなく
進化する創作世界において、文化、技術、伝統、美意識への
敬意、追求、刷新への想いもあったのではないでしょうか。
“時の粋” 数寄心を持つ現代型工務店として
我々にとってもパリのお茶室は特別な存在となりました。

1980昭和55年

“時の粋” 数寄心を持つ現代型工務店

80年代以降、グローバル化によって
日本の住宅デザインはモダン主流となります。
それに伴って、日本伝統建築の施工需要は
徐々に減少していき、水澤の伝統職人技巧は
国内でも貴重な存在となります。
このことにより
進化する建築創作においても
現代技術の更なる追求と共に
日本の心と技を忘れないように
文化への敬意、伝統技の継承
と技術新刷が使命となりました。

関東を中心にお客様のご要望に合わせて
全国で施工を行っております。

《海外施工例》

《 本社 》
〒135-0042 東京都江東区木場5丁目6番1号
TEL.03-3641-7111  FAX.03-3642-8646

《 Main Office 》
5-6-1, Kiba, Koto-Ku, Tokyo, Japan

《 甲府支店 》
〒400-0031 山梨県甲府市丸ノ内2丁目7番10号
TEL.055-222-0435  FAX.055-228-7044

《 Branch Office 》
2-7-10, Marunouchi, Kofu-shi, Yamanashi, Japan